朝鮮王朝22代王・正祖の肖像画(写真提供:ロコレ)
朝鮮王朝22代王・正祖の肖像画(写真提供:ロコレ)
韓国時代劇のドラマ『イ・サン』や映画『王の涙-イ・サンの決断-』の主人公として有名な正祖(チョンジョ)。王になる前から何度も命の危機にさらされた彼は、どのような人生を歩んだのだろうか。その背景を見てみよう。

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■幼少時に受けたトラウマ
 
 21代王・英祖(ヨンジョ)の息子である荘献(チャンホン)。聡明だった彼は世子となるが、その際に政治を批判したことにより、重臣たちを敵に回してしまう。

 その後、重臣や荘献の親族たちの策略で父親と険悪な関係になった。度重なる悪評を聞いた英祖は、息子に自害を命ずる。しかし、いつまで経っても自害しようとしないため、しびれを切らした王は、荘献を米びつに閉じ込めてしまう。

 荘献の息子であるサンは、必死で「父親を助けてほしい」と懇願するが、英祖はその願いを受け入れなかった。結局、荘献は世子という立場でありながら、米びつの中で餓死するという悲惨な最期を遂げた。(詳しくは思悼世子編より)

 幼かったサンは、父親を陥れた者たちに対して復讐心を抱いた。世子だった荘献が亡くなったことで、英祖が新たな後継者としてサンを指名する。立派な後継者にするために英祖は様々な教育を施すが、荘献を陥れた者たちからしてみれば、それは望ましいことではなかった。サンが王になれば、自分たちが報復されることがわかっていたからだ。そのため、彼らは刺客を放って、サンの命を何度も狙った。

 かなり用心深かった&サンは、寝るときも着がえなかったそうだ。


■正祖が行なった報復

 1776年に英祖が世を去り、荘献の息子であるサンが後を継いで22代王・正祖として即位した。王となった彼は、自分が荘献の息子であることを強調して、父を死に追いやった者は絶対に許さないという意志を示した。

 その後、正祖は荘献を陥れた者たちを次々と処罰していくが、祖母である貞純(チョンスン)王后だけは罰することができなかった。朝鮮王朝時代は儒教を重んじていたため、もし、正祖が祖母を処罰したら、朝鮮王朝が混乱に陥ることは明白だった。

 それでも貞純王后を憎むことを忘れなかった正祖は、彼女のまわりの勢力を一掃したのである。

 大規模な粛清を行なった正祖は、亡き父のために首都である漢陽(ハニャン)の南に位置する水原(スウォン)に華城(ファソン)を造って、そこに荘献の立派な墓を建てている。とても親孝行だった彼の行動は、多くの人の感動を呼んだ。


■正祖が残した功績

 正祖は、祖父である英祖が行なっていた「各派閥から公平に人材を登用する政策」を引き継いだ。しかし、「人材発掘を堂々と行なえば派閥争いに巻き込まれてしまう」と考えていた彼は、奎章閣(キュジャンガク)に目をつける。奎章閣は王室の図書館であり、重要な書籍の編纂や文献などの保管を行なう場所だ。正祖は、そこに有望な若者たちを集めて、様々な研究を行なえるようにした。最終的には100人以上の学者たちが奎章閣に集まり、正祖の文明開化に尽くした。

 正祖の功績はそれだけではなく、政治や経済、文化や庶民の生活水準の向上など、数え切れないほどある。それだけ多くの功績を残した正祖だが、1つだけ失敗を犯している。それは、祖母である貞純王后を厳格に処罰しなかったことだ。

 1800年に正祖は世を去るが、彼は貞純王后によって毒殺された可能性がある。結局、正祖の後を継いだ23代王・純祖(スンジョ)はまだ10歳だったために、貞純王后が摂政をした。

 貞純王后は正祖が進めていた改革をすべて潰すと、自分の息がかかった者を要職に就けるなどして、政治を私物化した。正祖にとって、それは最大の不幸と言わざるを得ない。


文=康 大地【コウ ダイチ】
(ロコレ提供)

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