<Wコラム>BoAに見る音楽カルチャー20年の変化(画像提供:wowkorea)
<Wコラム>BoAに見る音楽カルチャー20年の変化(画像提供:wowkorea)
世界で躍進する韓国のアーティストたち。私にとってはその原点といえるBoAがことし、日本デビュー20周年を迎えた。2001年、日本に降り立ちJ-POPのソロアーティストとして活動を始めた彼女が、息長く愛されつづける理由とは。日本デビュー20周年となる5月30日に公開された「BoA JP 20th - THE PROLOGUE -」を機に、数々の記録と本人の言葉、そして私のK-POPライターとしての遍歴とともに振り返ってみたい。

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「白羽の矢」
 いまも鮮烈に心に刻まれている。躍動的なトラックにのせたパワフルなダンス、大人びた表情の堂々としたステージが終わった時にふと見せるあどけない笑顔。2001年、BoAをテレビで初めて見た時の印象は強烈だった。「ID;Peace B」で日本デビュー。インターネットの環境があたりまえになりはじめた世の中に生きる同世代の若者たちの気持ちを代弁した曲で、新たな時代の到来を告げた彼女は、わずか14歳だった。韓国の音楽市場がそれほど大きくなかった当時、本格的に海外に進出するアーティストとして、SMエンタテインメントが白羽の矢を立てたのがBoAだったのだ。

 思い返せばまだK-POPという概念さえなかった時代。わたしは1990年代半ばソウルに留学して「ソテジワアイドゥルに」衝撃を受けて以来、現地で音楽番組を観覧したり、帰国後も旅行のたびにアルバムを手に入れたりするなど、韓国音楽ウォッチを続けてきた。90年代の日本では韓国の音楽といえば、アンダーグラウンドの世界(実際に地下の小ぢんまりとしたホールで来日ライブが行われることも多かった)。2000年代に入り、韓国でアイドルの元祖といわれた5人組ボーイズグループ「H.O.T.」が日本でリリースしたオリジナルアルバムを買い、6人組ボーイズグループ「SHINHWA」がZEPP TOKYOで行ったライブに参戦しながら、ファン層がじわじわ広がっていくのを感じていた。

 そんななかBoAは2002年、日本初のフルアルバム『LISTEN TO MY HEART』で、オリコンで初登場1位を記録。J-POPの歌姫として、一気に表舞台に躍り出た。



「涙」
 日本行きが人生で初めての飛行機だったというBoA。彼女は、20周年を記念した映像作品「BoA JP 20th -THE PROLOGUE-」で、こう語っている。
「日本デビューは冒険だったけど、やりがいのある冒険だった。韓国から離れるのは慣れておらず、ホームシックもあった。経験がないからこそ、そこからくる大変さもありました」
 韓国のテレビ局SBS「伝説の舞台 アーカイブK」では、NHKのアナウンサーの家庭にホームステイしながら日本語を学んだと明かした。日本に来て間もないころ、最初に覚えた漢字のひとつが「涙」。日本に来て間もないころ、覚えたてのひらがなで作詞した曲「Moon & Sunrise」(2003)に、「涙」だけが漢字で書かれているのは、ファンのあいだで広く知られたエピソードだ。

 寂しさやくやしさからあふれたであろう涙が、感激の涙に変わった瞬間を目撃したのは2011年、デビュー10周年を迎えた年のクリスマスライヴでのことだった。アンコールで歌った、BoAの代表曲のひとつであり、クリスマスソングの定番ともいえる「メリクリ」。冒頭から声を震わせていたBoAは、途中から涙で声を詰まらせてしまったのだ。マイクを客席に向けると、ファンたちが歌い始め、大きな合唱が会場を包む。(その様子は、「BoA JP 20th -THE PROLOGUE-」にも収められている)
「人生で初めて『メリクリ』が歌えなかった。10年間のいろんな曲を歌いながら、頑張ってきたな、って」とステージで語る彼女は、まさに感無量の表情だった。



「変化と進化」
 BoAの歩みは、未知へのチャレンジの連続だ。『LISTEN TO MY HEART』のミリオンセラーに続き、「DO THE MOTION」(2005)は、オリコン週間シングルランキングでトップを獲得した。NHK「紅白歌合戦」には2002年から6年連続出演し、日本レコード大賞、日本ゴールデンディスク大賞など、数々の賞にも輝いた。

2000年代後半には「BIGBANG」や「SUPER JUNIOR」をはじめ、韓国のアーティストが次々と日本に上陸。韓国の音楽はK-POPと呼ばれるようになる。2010年代前半には「KARA」や「少女時代」などガールズグループも幅広い世代に人気を博し、K-POPは日本を席巻するブームとなった。アリーナツアーやドームツアー。どんどん大きくなるステージに立つ韓国のアーティストと日本のファンの熱狂を取材する一方で、わたしの目を引いたのは、独自の道を進むBoAのチャレンジだった。

BoAがターゲットにしたのは、アメリカだった。2009年には全米デビューアルバム『BoA』をリリースし、Billboard200で127位に。同チャートに韓国の歌手がランクインしたのは、BoAが初めてだった。アメリカは、アーティストも交えてスタッフが話し合うスタイル。アメリカ音楽業界に身を投じたBoAは、セルフプロデュースを志すようになる。2012年には、「Only One」を作詞作曲。ミディアムテンポのR&Bに、ボーカルを前面に出した「リリカルヒップポップ」を試みる。翌年リリースした『Kiss My Lips』(2013)では12曲すべてを作詞・作曲・プロデュースで参加。それは、アイドルから、自らの声を発信するシンガーソングライターへと脱皮した瞬間だった。



「唯一無二」
 いまやアメリカをはじめ、世界中から注目を浴びるK-POP。韓国発の音楽は、この20年で飛躍的な成長を遂げた。そんななか、BoAはセルフプロデュースした「スキだよ -MY LOVE-」(2019)やアプリゲームのテーマソングとなった「I believe」(2020)を日本でリリース。韓国でも「NEGA DOLA」(2018)では本格的なヒップホップに挑戦し、「Woman」(2018)では逆立ちパフォーマンスを披露するなど、一作ごとに変化と進化を遂げながら、新たな境地を切り開き続けている。

「この仕事は過程よりは結果が重要視されます。本当に歌手になりたければ、身を粉にして努力しなければなりません。 実力は裏切らない。人気は泡のようなものだと言う人がいますが、実力はその泡を育てる水のような存在です」
2017年、国民プロデューサーを務めたオーディション番組「PRODUCE 101 シーズン2」で、デビューを目指す練習生たちにBoAが話した言葉だ。心に響くのは、BoAだから。前人未踏の地を進み続ける存在であるがゆえの説得力だ。

日本デビューから20年。自分ができる音楽を発信しながら、自分のフィールドで闘う。だが、「BoA JP 20th -THE PROLOGUE-」で笑顔で語る未来は、力むことなく軽やかだ。「なんか面白いことをやりたい。何か面白いことないかな」。彼女の心に浮かぶ、唯一無二の「なんか」。そんな底知れぬ好奇心こそが、BoAをBoAたらしめる所以かもしれない。コロナ禍で来日が叶わず「こんなに長く日本に行っていないのは初めて。早く行きたい」というBoA。再び日本のステージで輝く姿を見る日が待ち遠しい。


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