民主化を求めるデモが韓国全土に波及した(写真提供:ロコレ)
民主化を求めるデモが韓国全土に波及した(写真提供:ロコレ)
イ・ミンホチャン・グンソクは、ともに1987年生まれである。この年は、韓国現代史にとって、特に重要な年である。金字塔とも言うべき、民主化が達成されたからだ。この重要な節目の年をしっかりと振り返ってみよう。

イ・ミンホ の最新ニュースまとめ


■ソウル大学生が警察の拷問で死亡

 1980年8月に大統領になった全斗煥(チョン・ドゥハン)は、末永く大統領職にとどまる考えはなく、時期がくれば平和的に政権を委譲すると決意を述べていた。彼は「韓国で初めて正統に権力を手放した最初の大統領」になることを願っていた。

 そこには、朴正熙(パク・チョンヒ)の二の舞はぜひとも避けたいという気持ちが働いていた。朴正熙は政権を長く掌握しすぎた結果、信頼していた部下に暗殺されてしまったのだ(1979年10月)。全斗煥は、無残な最期を迎えた朴正熙を反面教師にしようとしていた。

 しかし、1987年になって7年間の大統領任期が終盤にさしかかったとき、全斗煥は大統領制から議員内閣制への移行をはかるようになった。

 この動きに対して野党は疑いの目を向けた。

 議員内閣制に変えて全斗煥は引き続き首相の座を維持して権力の保持につとめるのではないか、という猜疑心をもったのである。

 学生たちの反全斗煥の動きが日増しに拡大した。その中で、ソウル大学の学生が警察の拷問によって死亡するという事件が起こり、韓国全土が騒然とした雰囲気に包まれていった。


■反政府運動が激化

 1987年4月、全斗煥は突然の声明を発表して、翌年9月のソウル五輪までの憲法改正論議を禁止した。

 そのうえで、年末に行われる予定の大統領選挙を国民が自ら選ぶ直接制ではなく、5000人の選挙人による間接制で実施することを発表した。これでは、全斗煥の意をくんだ候補者が次期大統領に選出される状況となってしまう。

 国民の大反対にもかかわらず、大統領間接選挙を強行しようとした与党の民正党(民主正義党)は、6月2日に青瓦台(大統領官邸)で要職者会議を開き、党代表委員の盧泰愚(ノ・テウ)を次期大統領候補に推挙した。

 盧泰愚は、全斗煥と陸軍士官学校11期の同期生である。彼は全斗煥政権を支えるナンバー2であり、6月10日に党大会で正式に次期大統領候補に選出されると、第一野党の民主党(統一民主党)が激しく反発。党総裁の金泳三(キム・ヨンサム)は、現行憲法で大統領間接選挙を行なうならばボイコットすることを表明した。

 一方、在野勢力の反政府運動は激化するばかりだった。警察は約5万8000人の戦闘警察(機動隊)を動員して、野党の中心的人物(約700人)を自宅軟禁にする強硬策に出た。拘束された人物の中には、民主化推進協議会共同議長の金大中(キム・デジュン)も含まれていた。

 この過剰な取り締まりに反発した学生たちは、全国の主要都市で戦闘警察と衝突。市民を巻き込んだ抵抗運動はついに最大規模となった。


■ソウル五輪の開催に暗雲

 ソウル市では、膨れ上がった学生デモ隊が都心部に繰り出し、路上に座りこんで「独裁反対」を叫んだ。これに対し、戦闘警察は催眠弾攻撃をかけ、双方の激しい攻防が続いた。また、派出所への投石、新聞スタンドへの放火などもあり、ソウル市内は深夜まで騒然とした雰囲気に包まれた。

 ソウル市だけでなく、全国30都市以上で抗議デモが激化。催涙弾の被害が広がって各都市はマヒ状態となり、事態は深刻度を増すばかりだった。

 大規模なデモには学生だけでなく市民も参加した。いわば、国民すべてを巻き込んだ大闘争に発展していたのである。6月15日には全国45大学で6万人の学生がデモを繰り広げ、その抵抗運動は衰えることを知らなかった。

 燃え上がった反政府運動は、18日になってさらに激化した。ソウルでは学生3万人が中心部で警察のバスを焼いたために、長時間にわたって交通がマヒ状態となった。

 釜山でも10万人にふくれあがった学生を戦闘警察も阻止できず、中心部は解放区同然となった。

 韓国全土の反政府運動の様子が世界に伝わるのは政権側にとって大打撃だった。主要国の中には翌年に開催予定のソウル五輪を危ぶむ声も高まり始めた。


■アメリカの説得

 全斗煥の苛立ちもつのる一方だった。6月19日の朝、激しい反政府運動に業を煮やし、軍を出動させる腹を固めた。

「政党を解散させ、デモに参加している学生を逮捕し、政治犯は残らず軍事法廷に引っ張りだす」

 全斗煥は国防相や軍首脳を集めて、翌日の早朝にデモ鎮圧の軍を出動させる意向を明らかにした。その最終決断を同日(19日)の午後5時にする予定だった。その直前に持ち込まれたのが、アメリカのレーガン大統領の親書だった。

「反政府運動に対して過剰な対応をしないように自制を求めると同時に、問題解決のために野党勢力と対話を進めてほしい」

 そういう忠告だった。

 アメリカは全斗煥を刺激しないために、レーガンが友人に手紙を書くという形でゆるやかに説得しようとした。親書では、一応は平和的政権委譲を進めようとしている全斗煥の政治姿勢を称賛し、その立場を最後まで支持することを書き添えた。ただし、穏やかな表現が綴られていたとはいえ、全斗煥が強硬手段を取ればアメリカも断固たる措置を取るという決意も言外ににじませていた。

 しかし、この時点ですでに全斗煥は軍の介入を決意していた。アメリカのリリー大使はそのことを察し、誠意を込めて全斗煥を説得した。

 自制を求めるレーガン親書を渡し、さらに軍を介入させれば米韓の同盟関係に決定的な亀裂が生じることを警告したのである。


■紙一重の分かれ目

 リリー大使の話を熱心に聞いていた全斗煥は即答をさけ「検討する」と述べて会見を打ち切った。

 それから1時間。全斗煥は孤独の中で最後の決断を強いられていた。彼は師である朴正熙のことを考えた。その悲劇的暗殺は無残だった。ここで軍を介入させて戒厳令を強行すれば、平和的政権委譲を果たそうとした自分の夢が完全に崩壊してしまう。

 最終的に、彼は歴史の汚名を浴びることに躊躇した。やがて側近を集め、午前中に決意した軍の介入を取り消すことを伝えた。

 まさに紙一重の分かれ目となった。

「武力に頼るのではなく、対話による解決をはかるしかない」

 その重大な事実にようやく気づいた与党の民正党は、野党との対話路線に歩みを進めた。20日になって民正党代表委員の盧泰愚は「私はどのような地位にも恋々としない。事態を政治的に解決するために自分のすべてをかける」と述べて、全斗煥に在野の指導者たちと積極的に対話の場をもつように建議した。

 ちなみに、この2日後にイ・ミンホが生まれている。彼が誕生したときは、民主化闘争の真っ最中だったのだ。

(後編に続く)


文=康 熙奉(カン ヒボン)
(ロコレ提供)

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