昌徳宮(チャンドックン)に住んでいた孝明世子は奥の後苑(フウォン)を愛していた(写真提供:ロコレ)
昌徳宮(チャンドックン)に住んでいた孝明世子は奥の後苑(フウォン)を愛していた(写真提供:ロコレ)
韓国で放送中の時代劇『雲が描いた月明かり』。視聴率も好調で人気を集めているが、このドラマの主人公になっているのが孝明(ヒョミョン)世子である。早世したために歴史上でもあまり知られていなかったのだが、果たしてどんな人物だったのか。

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■純祖と純元王后の息子

名君と呼ばれた22代王・正祖(チョンジョ)が1800年に世を去ると、息子の純祖(スンジョ)が10歳で23代王に即位した。

 彼の正室が純元(スヌォン)王后である。この女性は大変な活動家で、純祖の性格がおとなしいことを利用して、自分の実家の一族である安東金氏(アンドンキムシ)をどんどん重職につけた。

 こうして安東金氏が朝鮮王朝の政治を牛耳るようになると、純祖もようやく妻の実家を牽制するようになり、具体的な行動に出た。それは10歳だった息子の孝明世子の正室に豊壌趙氏(プンヤンチョシ)の一族の娘を迎えることだった。つまり、豊壌趙氏を重用して安東金氏に対抗させようとしたのだ。


■果たして毒殺されたのか

 孝明世子の成長にともなって豊壌趙氏は安東金氏の勢力を上回った。もはや安東金氏の没落はさけられなかったのだが、驚愕すべき悲劇が起こってしまった。孝明世子がわずか21歳で1830年に亡くなってしまったのである。

 有力な後ろ楯を失った豊壌趙氏は力が衰え、逆に安東金氏が復活した。純祖の意図は息子の死によって失敗に終わったのだ。以後は純元王后が世を去る1857年まで安東金氏の天下が続いて政治が腐敗した。いわば、孝明世子の死は朝鮮王朝にとっても悲劇だったのである。

 それにしても、21歳での早世というのはあまりに早すぎる。それゆえに、「孝明世子は安東金氏の勢力に毒殺されたのではないか」という憶測がずっとつきまとっていた。

 その可能性も確かにある。孝明世子の死によって安東金氏が復活した。純元王后が自分の息子の命を狙うというのは考えにくいが、一族の他の誰かが毒殺を狙ったということは十分にありうるだろう。それくらい、安東金氏にとって孝明世子は最大の敵だったのである。


■早すぎる死が惜しまれる

 孝明世子は容貌に優れ、頭脳も明晰だったという。今でいえば、イケメンのエリートだったわけだ。

 祖父は時代劇『イ・サン』の主人公になった正祖(チョンジョ)だが、読書好きで知られた正祖ゆずりで、とにかく本を読むことが好きだったという。

 この孝明世子は、父の純祖の命令によって18歳頃から政治を代行することも多かった。その際には安東金氏の勢力に対抗して新しい人材を登用したというから、もし孝明世子がもっと生きて順当に王になっていれば、政治を刷新していたに違いない。

 本当に惜しい若者が早世してしまったものだ。

 そういう気持ちで『雲が描いた月明かり』を見ると、ドラマで描かれた孝明世子にさらなる関心を持つのではないだろうか。

 今までは歴史上でも影がうすかった孝明世子だが、ドラマの人気にともなって大いに知名度をあげるに違いない。


文=康 熙奉(カン ヒボン)
(ロコレ提供)

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